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早稲田大学の歴史と成り立ち|創立から現在までの歩み

早稲田大学の概要

早稲田大学は1882年(明治15年)に東京・牛込早稲田(現在の東京都新宿区)に創立された日本を代表する私立総合大学だ。政治家・大隈重信と盟友・小野梓が「学問の独立」を掲げて設立した東京専門学校を前身とし、140年以上の歴史を持つ。現在は13学部・23研究科を擁し、学部学生数約4万人規模の総合大学として知られる。


創立の背景——明治維新と学問の独立

明治政府と教育の問題意識

早稲田大学の創立は、明治維新後の日本の教育状況への強い問題意識から生まれた。当時の日本では、東京大学(現・東京大学)をはじめとする官立学校が高等教育を独占しており、私立の高等教育機関はほとんど存在しなかった。

官立学校では外国人教師による外国語(英語・フランス語・ドイツ語)での授業が主流で、「日本語で学問を教える」という視点が欠けていた。また、政府の教育方針に沿った人材育成に偏り、自由な学問的探究の場が乏しかった。

大隈重信と小野梓の思想

創立者・大隈重信(1838〜1922年)は、明治政府の大蔵卿として近代日本の財政基盤を築いた政治家だ。しかし1881年(明治14年)の「明治十四年の政変」で政府を追われ、下野する。

この政変をきっかけに大隈は「政治から教育へ」という転換を図る。「独立した学問機関が、自由な知性を持つ人材を育てなければ、真の近代国家は生まれない」という確信が、東京専門学校設立の原動力となった。

小野梓(1852〜1886年)は大隈の盟友で、慶應義塾でも学び、イギリスに留学した法学者・思想家だ。「国民のための学問」「日本語による高等教育」という理念を具体化した設立の実務的推進者であり、早逝(33歳)しながらも創立期の精神的支柱となった。


創立当初の姿——東京専門学校(1882年)

開校の日

1882年(明治15年)10月21日、東京専門学校は開校した。最初の学生は約80名。政治経済学科・法律学科・英語学科の3学科体制でスタートした。

初代総理(校長)は大隈重信自身が務め、講師陣には政府で活躍した人材や若い俊英が招かれた。「日本語で、日本人のために、実学を教える」というコンセプトは当時の高等教育機関としては革新的だった。

「専門」という名称の意味

「東京専門学校」という名称には、「専門的な学問を教える機関」という意味が込められていた。当時の専門学校は帝国大学よりも下位に位置づけられていたが、大隈や小野が目指したのは「帝国大学に対抗しうる、独立した学術機関」だった。

創立の理念として、大隈は後年「三大主義」(学問の独立・学問の活用・模範国民の造就)を明示している。「学問の独立」とは、政府や特定の権力から自由な学術機関を作るという宣言だった。


近代化・戦前の発展(1880年代〜1945年)

早稲田大学への改称(1902年)

1902年(明治35年)、東京専門学校は「早稲田大学」に改称した。当時の専門学校令による昇格に伴うものだが、「大学」という名称への移行は創立者たちの悲願でもあった。

この改称と同年、大隈重信は「早稲田大学教旨」を発表。「学問の独立・学問の活用・模範国民の造就」の三大主義を正式に大学の理念として宣言した。この教旨は現在も早稲田大学の根本精神として継承されている。

大学令による正式昇格(1920年)

1920年(大正9年)、大学令に基づく正式な「大学」として認定される。政治経済・法・文・商・理工の5学部体制となり、総合大学としての基盤が整った。

この時期、学生運動・社会運動が盛んになり、早稲田大学は自由主義・民主主義の気風が強い大学として全国的に知られるようになる。「在野精神」(官に頼らず、民間の立場から社会に貢献する)という精神が大学文化として根付いていった。

早稲田騒動と大隈の死(1917年・1922年)

1917年(大正6年)、教授と学生による「早稲田騒動」が勃発。大学運営の自主性を巡る内紛だったが、これが「学問の独立」という理念の実質化を求める声の表れでもあった。

大隈重信は1922年(大正11年)に83歳で死去。「民間最大の学問機関を作る」という生涯の夢を果たした。

戦時下の早稲田

1930年代から1945年の敗戦にかけて、早稲田大学も軍国主義の波に飲み込まれる。多くの学生が戦場に送られ、大学施設も戦時利用された。この時期に命を落とした早稲田学生は約3,700名に上るとされる(要公式確認)。


戦後の再建と発展(1945年〜)

新制大学への移行(1949年)

1949年(昭和24年)、学制改革に伴い新制大学へ移行。政治経済・法・文・教育・商・理工・第二政治経済・第二法・第二文・第二商・第二理工の11学部体制でスタートした。「第二」と付く学部は夜間学部で、働きながら学ぶ学生のための設置だった。

高度成長期の拡充(1950年代〜70年代)

1950〜60年代の高度経済成長期、早稲田大学は文理の学部を充実させながら規模を拡大した。1966年(昭和41年)には社会科学部が設置され、学際的な社会科学教育の場ができた。

1960年代末、全国の大学が学生運動に揺れた時期、早稲田大学も例外ではなかった。学生自治会が大学本部を占拠するなど激しい闘争が続いたが、その根底には「在野精神」「学問の独立」という早稲田的価値観が流れていた。

1980年代以降の改革

1980年代以降、早稲田大学は国際化と研究強化を進めた。1987年(昭和62年)には人間科学部が設置され、「人間」を総合的に研究する新しい学問分野を開拓した。

1990年代にはスポーツ科学部(2003年設置)、国際教養学部(2004年設置)など、時代のニーズに応じた新学部を次々と設置した。


現代の姿

13学部体制と4つのキャンパス

現在の早稲田大学は以下の13学部を擁する(要公式確認):

  1. 政治経済学部
  2. 法学部
  3. 文化構想学部
  4. 文学部
  5. 教育学部
  6. 商学部
  7. 基幹理工学部
  8. 創造理工学部
  9. 先進理工学部
  10. 社会科学部
  11. 人間科学部
  12. スポーツ科学部
  13. 国際教養学部

キャンパスは早稲田(西早稲田)・戸山・西早稲田・所沢の4拠点に分かれている。

研究と国際化

早稲田大学は研究型大学として、医工学・材料科学・社会科学などの分野で国際的な研究成果を上げている。留学生数・派遣留学生数ともに国内トップクラスで、グローバルな教育環境が整っている。


建学精神と歴史の関係

「学問の独立」の現代的意味

大隈重信が1902年に宣言した「三大主義」のうち、特に「学問の独立」は早稲田大学の歴史を通じた一貫したテーマだ。官立大学に対抗する民間の学問機関として出発し、政府からの独立を守り続けてきた。

この精神は現代では「在野精神」として受け継がれている。「官界・財界の御用学者にならず、民間の立場から社会の問題に向き合う」という姿勢が、早稲田大学の学問的文化の基底にある。

「学問の活用」と実学の伝統

「学問の活用」とは、象牙の塔に閉じこもらず、学問を社会の現実問題の解決に活かすという理念だ。法学・政治学・経済学・商学という実学的な学部を核に発展してきた早稲田大学の歴史は、この理念を体現している。

現代の早稲田大学では、産学連携・社会連携プログラムが充実しており、「学問の活用」は研究と教育の両面で実践されている。


早稲田大学 主要年表

  • 1882年(明治15年) 大隈重信・小野梓が東京専門学校を創立(10月21日)。政治経済・法律・英語の3学科
  • 1886年(明治19年) 小野梓死去(33歳)。創立期の精神的支柱を失う
  • 1902年(明治35年) 早稲田大学に改称。大隈重信が「早稲田大学教旨(三大主義)」を発表
  • 1905年(明治38年) 大学院設置
  • 1920年(大正9年) 大学令による大学として正式認可。5学部体制
  • 1922年(大正11年) 大隈重信死去(83歳)
  • 1927年(昭和2年) 理工学部設置
  • 1949年(昭和24年) 新制大学へ移行。11学部体制
  • 1966年(昭和41年) 社会科学部設置
  • 1987年(昭和62年) 人間科学部設置(埼玉・所沢キャンパス)
  • 2003年(平成15年) スポーツ科学部設置
  • 2004年(平成16年) 国際教養学部設置
  • 2007年(平成19年) 理工学部を基幹・創造・先進の3学部に再編
  • 2010年(平成22年) 文学部・文化構想学部の2学部体制が定着

まとめ

早稲田大学の歴史は、「学問の独立」という一貫したテーマで貫かれている。明治政府が高等教育を独占していた時代に、大隈重信と小野梓が「民間の、自由な学問機関を作る」という信念で東京専門学校を開いた。

140年以上を経た現在も、早稲田大学の「在野精神」——官や権威に依存せず、自由な立場から社会の問題に向き合う姿勢——は、学問的文化の根底に流れている。

早稲田大学を志望する受験生にとって、この歴史的背景を理解することは、志望理由書で「なぜ早稲田か」を答えるための重要な視点になる。


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本記事の情報は2026年5月時点のものです。詳細は各大学公式サイトでご確認ください。

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